母の記憶☆

浜松の駅近くに、東映東洋と日活ダイエイ松竹があった。
父と母の新居は東洋劇場の裏にあり、映画館と繋がっていた。
父はりんご箱を机がわりにしたそうである。
母は着物が良く似合い何でも自分で身の回りの物は工夫して作っていた。
今も長い白い割烹着の母の姿を思い出す。
生前、五、六年前にも草履、下駄など生涯買い続けた店に、私も一緒にいきました。
東洋劇場は西部劇が良く流行りジョンウエイや母の好きなゲーリークーパーは、いつも大人気で満席でした。
後ろで立って見ていた人も大勢でした。
東映では時代劇の真っ盛りで何処も満員でした。
当時、伊賀創八は映画館の次はテレビ、またビルを建設と時代の先端を切る事業の事しか頭にない人でした。
また、女性にモテテおめかけさんが何人もいました。
この事で父の姉たかは、かんしゃくを起こし揉めたようでした。
ある時父は、どこに行っても一流なイデタチでしたので、やくざに見込まれてしまい殴られて帰って来ました。
父はこの事態は殴られも、殴り返してはいけないと判断しました。
母も驚いて医者を呼んだり心配したそうです。
すぐこれを聞き、たかが、創八に言いました。
その後、母の所へヤクザの親分さんが来られ「伊賀様の弟様とは知らず子分衆が行ったことを誠に申し訳ないと、誤りに参りました。」
父もいえいえと愛想良く、親分もほっとして帰りました。
当時の服部じすけ親分でした。。。。
つづく。
〜。。ビーナス教子☆〜